メンヘラと鬱と積極的ニヒリズムから考える、社会人の憂鬱。
人生に意味なんてない。
終わりにはどうせ死ぬだけだし、何もかも意味がない。
こんな世の中で生きる価値はない。
昔ぼくがずっと思ってたことです。捻くれつつも、ありがちな思想ではありますね。これをさらに拗らせたのがメンヘラや鬱と言われるものですね。
今回は僕の経験論から「メンヘラと鬱と積極的ニヒリズム」の話を書きます。
メンヘラとは?
語源は2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」より由来する。メンタルヘルス板とは「心の健康」について取り扱う板。
2ちゃんねらーの間で「メンタルヘルス板にいるような人間」をメンヘラーと略されるようになり、それがメンヘラになった。主に心に病気を抱えた人について使われる言葉として扱われている。
差別的な意味を含む場合もあるため扱いには注意しよう。
ちょっと心に問題を抱えている人の事ですね。それが進行して「死にたい死にたい」と思いながら生き続けて、いずれ無気力になる状態が「鬱(うつ)」ですね。
以前にもチラッと書きましたが、僕は過去うつ病を患っておりました。別にそれを誇らしいとも情けないとも思っておらず、触れてはいけない領域でもないので会社の人も見てるこのブログに書いてます。
まぁ今はすっかり治っておりますが「人生に意味はない」という考え方について、正直いまの僕も根本の部分は変わってません。いくら生きても死ねば終わりだし意味はないよね、とずっと思っています。(あ、決して今僕が「生きていても無駄なだけだ死にたい」とか「世の中終わってる死にたい」とか思ってるわけじゃないです。積極的ニヒリズムです、後ほど説明します。)
それは欠点か?
このネガティブ論な考え方についてですが、僕は決して間違っているとは思いません。人生に意味はない!価値もない!と思えるのは素晴らしいことじゃないかと思います。人生に対し疑問を持つということは、自己についてしっかりと考えようとしている証拠であり、成長のために大切なステップであると思っています。
しかし、「生きていても意味がない」というネガティブ論な考え方は抑圧されがちです。「メンヘラ」という差別的要素のある言葉が表す通り、そういった思考の人間に対し「変な人/頭がおかしい/普通とは違う」という気持ちを多くの人が持っていると思います。直接そんな言葉を言うわけではなくとも、そういった意識は態度に表れるので無言の抑圧とでも言いましょうか。
メンヘラな人はもともとはじめから精神を病んでいるわけではありません。きっかけは外面であったり内面であったり様々ですが、ただ「他の人と少し違っただけ」なのです。
まだ肉体的にも精神的にも幼く、上手な表現の方法を知らない状態で「人と違う」ということを無言の抑圧で否定され続け、自己表現の方法を見つけられなかった結果が「死にたい」という逆説的な存在表現なのです。
例えば、ちょっと捻くれた男子小学生が気になる女の子に「ブス!」って言っちゃうのと同じようなもんですね。じょうずな表現の方法を知らないのです。そんな男の子に周囲が「あの子ブスって言ってる!性格の悪いダメな子だ!関わらないようにしよう!」っていう接し方をすればどうなるかはわかりますよね。対人関係に難のある子に育つのは目に見えてます。
鬱になる人はただ不器用で、自己の個性に関する理解と表現の方法を知らないだけなのです。決してその人自身が間違っているなんてことはないのです。
あのスヌーピーで有名な、僕が大好きな漫画『ピーナッツ』の登場人物であるライナスもこんなことを言っています。
欠点?これが欠点だって!?違うよ...これはみんな個性だよ。(ライナス)
他人と違うことは欠点でも何でもないのです。
(この漫画の作者チャールズ・シュルツは精神分析/哲学/心理学などに非常に長けた人間で、『ピーナッツ』は精神医学の臨床や生涯教育にも使用されています。ほんとうに好きな漫画なのでまた別途紹介したいです。)
積極的ニヒリズムとは?
ニヒリズム(虚無主義)とは哲学用語で、ものすごく簡単にいうと「誰ひとりとして真理なんてものは証明できないし、信じるに値する確かなモノなんてないこの世は虚無である」といった姿勢のことを表します。
まさに鬱的思考ですね。冒頭の文句の通り、僕は完全にこの思考でした。ですが、いま伝えたい僕の考えはそういったネガティブの塊ではないのです。
僕はいろんなところで「美しく生きる」と書いてますが、これはニヒリズム的思考の上に成り立つ感覚だと僕は思っています。誤解を生みそうなのでなるべく言いたくありませんが、美しく生きるをまるーく言うと「現状を受け入れた上で、自分自身がどう生きるか」ということです。(楽しけりゃいーじゃん!という楽観的な視点とはまた別です。いや、楽しければそれでいいんですけど、ちょっとニュアンスが違うんです。)
このように「意味がないということにただ絶望するのではなく、その中での自分の在り方を模索する」という姿勢のことを、積極的という言葉を付け足して「積極的ニヒリズム」といいます。哲学家のニーチェが提唱しております。
社会人の憂鬱
この積極的ニヒリズムという概念をブログで紹介したい理由は、この概念が無い状態でニヒリズム的思考に陥ると、知らず知らずのうちに消極的ニヒリズムへ流れていく可能性が高いのではと感じているからです。消極的ニヒリズムとは「人生は意味がないので流されて死ぬまで生きる」という、下記の記事中でも言っている「ただ生きる」の状態ですね。
人生人生って言ってますが、別に人生全体という大げさな話ではありません。
例えば「仕事に行く意味はない。行かなきゃならないから行くだけ。」というのもある意味での消極的ニヒリズムです。そういった「社会人の憂鬱」に関して伝えたいことがあります。
◆自分自身の力
僕は中高生時代の若い頃にうつ病を経験しましたが、こういった具合に精神が衰弱する現象は「未成年の発達段階」でのみ起きる問題ではありません。社会人になってからも容易に起こりうる問題です。就活生の憂鬱に始まり、社会人の休職率や離職率の高さなど、近頃それが顕著だなと感じます。
子どもの頃であれば周囲も受け入れる姿勢はありますが、年齢的に大人になると「うつ病は甘え」と、受け入れられる余地はほとんどありません。そういった状況で手を差し伸べられるのは自分自身です。友達や家族などの助けもあったりはするでしょうが、核のところはやはり自分自身の力(考える力/表現する力/アイデンティティなど)にあります。
◆心は水もの
もう一つ伝えたいのが、「心の動きに境目なんてない」ということです。体の不調であれば「何℃以上が発熱」などといった境目がありますが、「落ち込み/精神的な辛さ/憂鬱/うつ病」といった心の働きに明確な境目なんてものはありません。つまり「うつ病になったら治療をする」といったような単純なものではないのです。
例えば「毎日仕事して家帰っての繰り返しで憂鬱だつまらない」という気持ちも、うつ病と同じく解決すべき精神問題であることに違いはないのです。
◆応急処置だけでは限界がある
そういった憂鬱は「ショッピング/旅行/美味しいものを食べる」などで気晴らしをしてストレスコントロールができますが、それはFirst Aid(応急処置)でしかないのです。結局は同じことのサイクルで「仕事で消耗→給料を得る→給料で応急処置→仕事で消耗」を繰り返すだけなのです。破損と修繕の繰り返しです。それが何かのきっかけで限界を超えてパンクしてしまうと、もう気づいた頃には心はボロボロです。
それを防ぐためにはAdvanced Life Support(恒久処置)が必要です。そのためには「表現すること」「考える力」「コミュニケーション」「アイデンティティ」といったものが不可欠な要素になるので、このブログではそういったキーワードを軸にいつも記事を書いています。
2つの選択肢のバランス
社会で精神的に参ったとき、僕たちが生き続けるためには2つの選択肢しかありません。
- 簡単な応急処置をし続ける
- 少し難しい恒久処置をしてみる
応急処置はお金さえあれば簡単です。好きなものを食べて、好きなものを買って発散するだけです。決してこれが「簡単だから悪い」と言いたいわけではありません。これがなければ人生楽しくなんてありませんし。
いつも言いますが結局はバランスだと思います。
応急処置にばかり目を向けていると、お金で解決することばかりなのでお金に振り回されます。そうすると次は「もっとお金を持つ」ということに意識が向きますが、お金なんて簡単に手に入るものではないのでまたもやもやします。そしてまたそのもやもやを応急処置しようとします。つまり、バランスが取れていないと「応急処置の費用を稼ぐために仕事をして、応急処置するためにお金を使う」という負のスパイラルに陥っていくだけなのです。破損と修復の繰り返しを続けるだけではいつかガタが来ます。
そうならないためにも恒久処置が大切で、それに関わってくるのが積極的ニヒリズムの概念です。人生を楽しんでいる人間にとっては気にする必要もない話なのですが、社会に出てから「得体の知れない不安感や憂鬱」に苛まれている人間にとっては大切な概念であると僕は思っています。
おわりに
これらの話や概念は、本などで知っただけの知識ではなく自身の経験からたどり着いた結果なので、自分の言葉で人に伝えないといけないなと思っています。ある意味での義務感であり、僕の人生における意味の1要素でもあります。(そしてその根本には『愛』というものの存在が...という話もしたいんですけど一気に胡散臭くなりそうなので今はやめときます。負の連鎖から抜け出そうとするきっかけも愛であると思っています。いつか書きます。)
まぁ、一言にすると「人生は一度きり」っていうよくあるフレーズにまとまるわけですが、その言葉が持つ意味は人によってバラバラだと思います。
人生は一直線ではありません。山あり谷ありなので、最高に達する為には一度最低に触れるという事も必要なのです。その「最低(極限のネガティブ状態)」は悪いことではありません。それを受け入れることが大切なんだと僕は思います。
以上!