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【もののけ姫】「生きろ、そなたは美しい」の意味を考えてみた。

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前回のハウルの動く城に引き続き、今回はもののけ姫について書こうと思います。国内興行収入193億を叩き出したこの作品、とてつもない量の要素を含んでいてひとつひとつ考えるとキリがないほど濃い作品です。

そんな中でも、今回は有名なあのアシタカの名セリフにフォーカスし僕なりの観点で考えてみました。

(前回のハウルの記事はこちら↓)

キャッチコピーは「生きろ。」

その肝心の名台詞は、サンがエボシの首を狙ってタタラ場を襲撃しにくるシーンで登場します。

暴れるサンを止めたアシタカは、サンを担いでタタラ場を去る際にタタラ場の女性に撃たれ瀕死の状態になります。サンは、そんなアシタカに刃を突きつけ「なぜ私を助けた!」と問いかけます。そして、アシタカはこう言います。

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生きろ、そなたは美しい

ぱっと見、サンに一目惚れしたアシタカの愛の告白に見えないこともないですね。ですが、キャッチコピーにもなっているこのセリフがそれだけではあっさりしすぎだと思うので、もう少し考えてみました。

サンの生い立ち

まずサンの生い立ちを見てみましょう。それについてはモロが下記のセリフで簡潔に説明してくれています。

モロ「我が牙を逃れるために人間たちが投げてよこした赤子がサンだ 」

これはつまり、人間たちが木を切り倒してタタラ場(製鉄所)を作り、それに怒った山神(モロ)を静めるための生贄として差し出されたのがサンということです。

そうしてサンはモロに育てられ、人間でありながら山犬としての生活を送っています。しかし、肉体的には人間です。いくら山犬として生きていても、本物の山犬に乗らないと自由に山を駆け巡ることすらできない半端者です。

つまり、山犬なのか?人間なのか?と、サンのアイデンティティは非常に不安定な状態ということがわかります。

サンに与えられた選択肢

そんなサンの不安定な状態をモロは理解しており、こんなセリフを言っています。

モロ「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ。おまえにサンが救えるか。」

モロはサンのことを「醜い」と表現しています。これは端的に言えば、人間であるという事実を受け入れることができず、自身を否定し続けるサンには美しさ(=自分らしさ)が無いということを言っています。

しかし、それは彼女自身が悪いのではありません。彼女に非はないのです。だからモロは「哀れ」という言葉を付け足しているのです。つまり、どういうことか?下記のセリフからわかることがあります。

サン「死などこわいもんか!人間を追い払うためなら生命などいらぬ!」

これは一見、サン自身の「強い意志」であるように見えますが、実はこれは彼女の意志ではありません。サンの生い立ちを踏まえると、そうならざるを得なかったのです。人間に捨てられたサンに選択肢などありませんでした。自由意志に関わらず、人間を憎むほかなかったのです。

このように人間でありながら人間を否定せざるを得ないという、自身のアイデンティティに対し「抑圧的な環境」でしか生きることができない彼女のことを、モロは「哀れで醜い」と表現しているのです。

哀れなら救えばいいじゃんと思いますが、完全な山犬であるモロにはその環境を変えることはできません。モロがサンに対してできることといえば「山犬として育てること」だけです。つまり、サンという存在を一時的に安定させるための唯一の方法が抑圧的な環境下に置くことなのです。モロにサンは救えないのです。

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モロ、本作で最も大きなジレンマを背負った登場人物(犬?)だと思います。

サン自身であるということ

では、なぜアシタカはそんなサンのことを「美しい」と言い切ったのでしょうか?

モロとの言い争いの中で、アシタカはこんなセリフを言っています。

アシタカ「あの子を解きはなて!あの子は人間だぞ!」

このセリフ、「サンは人間であって山犬ではない」と言っているように見えますが、実は「山犬ではない」と言っているわけではないのです。ややこしいですね。

あくまでも「人間である」ということを言っているだけなのです。サンが人間であるということは紛れもない事実です。その事実を受け入れて初めて「自らの意志」が生まれるのです。アシタカはその自らの意志が大切だと確信しているため「抑圧的な環境から解き放て」と言っているのです。モロとは真逆ですね。

ここで「自らの意志って言うけど、結局押し付けじゃないの?アシタカのエゴじゃないの?」という疑問が浮かぶかもしれません。ここでもう一度、「生きろ」と言っているシーンの画像をご覧ください。

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アシタカの喉元にナイフを突き立てているのはサンです。刃物は人間が作り出した武器であり、サンの持つナイフは人間性の比喩となっています。サンはこれを山犬の象徴とも言える「」の代わりとして使っています。これはつまり彼女自身が「山犬にはなりきれない。自分は人間である。」と心の奥底では感じており、人間性を捨てきれていないことが現れています。

(このシーンでのアシタカはナイフを突きつけるまでもなく瀕死で動けない状態です。ほっといても死にます。そこにあえて人間性の比喩であるナイフを突き立てるという行動が、サンの心の奥底を表しているのではないかと思いました。)

どちらにもなりきれず、どちらも捨てきれず、今そこにある自分自身を受け入れられなければアイデンティティは永遠に不安定なままなのです。

「生きろ、そなたは美しい」に込められたメッセージ

ここでもう一度、サンとアシタカの会話を見てみましょう。

サン「死などこわいもんか!人間を追い払うためなら生命などいらぬ!」
アシタカ「わかっている…最初に会ったときから」
サン「そのノド切り裂いて、二度とムダ口がたたけぬようにしてやる!」
アシタカ「生きろ…」
サン「まだ言うか!人間の指図はうけぬ!」
アシタカ「そなたは美しい…」

上記の考察結果を踏まえて要約すると、このシーンでのアシタカは下記のようなことを言っているのではないかと思います。少々野暮ったいですが...。

自分自身を受け入れられていない状態で、命を捨てるな。

「サン(自分自身)」として生きてほしい。

自分に嘘をつくな。そなたは本当は美しいのだ。

そういったメッセージが「生きろ、そなたは美しい」に込められているのではないかと思います。

その後のラストシーンで...

すっきりしない」との声が多いもののけ姫のラストシーンですが、サンとアシタカのこのやり取りで終わります。

サン「アシタカは好きだ。でも人間をゆるすことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。会いにいくよ、ヤックルに乗って」

 お互いはそれぞれ元の場所で離れ離れで生きます。結局、第三者からの視点では「はじめと状況は変わっていない」のです。

しかし、唯一大きく変わっていることがあります。サンはアシタカのことを「好きだ」と言っています。サンはアシタカに対し恋愛感情を抱いているのです。(森という非社会性の環境で育ったサンが「友達として好き」のような複雑な概念を持っているはずもないので)

人間であるアシタカに対し恋愛感情を抱いている」ということは、自分自身が人間であることを受け入れているということでもあるのです。

あの子を解き放て!あの子は人間だ!」と豪語していたアシタカが、サンが森で以前と変わらぬ暮らしをするにも関わらず「それでもいい」と言っているのはその為です。サンが自分自身を受け入れた上で、自らの意志で選択をしているからなのです。

自らを受け入れたサンのアイデンティティは安定しています。ラストシーンのサンの穏やかな表情にもそれが現れています。

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美しいですね。

まとめ

以上が僕の思う「生きろ、そなたは美しい」の意味でした。はじめて見たときは、なーんか深いこと言ってるなぁと思ったくらいですが、改めて考えてみるとその言葉の大切さがよくわかります。

生きろ。」というのはもののけ姫のキャッチコピーでもあります。現代の日本では、流されるままにただ生きることは難しくはありません。食べるものなんてそこらじゅうにあります。そんな中での「生きろ。」という言葉には強い意志を感じます。サンだけでなく、現代社会で生きる僕たちにとっても重要なメッセージではないかと僕は思います。

たった一度の人生、強い意志を持って美しく生きたいものです。

以上!